30数年前は、、、。

お疲れ様でございます。あまりKOTOさんの事ばかり書くとストーカーと思われると困るので今回は自分の事を。
 さかのぼること三十数年前ケセラ少年は高校入学の時、中学時代にやっていたバスケ部に入部しました。その高校の中でも厳しいとは聞いていましたが、それは想像を遥かに超えていました。入学した高校は地方の公立の普通科高校で中学の時に実績を残した人や身長の高い人がいる訳でもありませんでした。顧問の先生は『バスケットにおいて身長が高いという事は実力のひとつだ、それがない君達は走るしか無い』といいひたすら走る練習の毎日でした、休日もほぼ部活で休みなのは夏休みの合宿後と大晦日の年2日しかありませんでした、そしてあまりの厳しさに入学の時には十数人いた部員も2年生の秋になる頃には6人となっていました。しかしその厳しい練習のお陰か当時チームで1番身長が高い人が182cm位しかなかったにも関わらず県で屈指の強豪校となり大会で身長の高いチームを速攻とパス回しで翻弄した際なんかはたかが高校の部活なのに観客から歓声が沸くほどでした。しかし、3年生になった時に顧問の先生が異動となりました、後任は副顧問の先生がなったので練習方法や方向性は同じはずなのに何故かしっくりせず高校3年大会では平凡な成績で終わってしまいました。なんか115、116期のタッチ〜達の動揺ぶりがわかるような気がしました。そして部活を引退した後ですが、今でこそドラえもんやらジャイアンとか言っている人がいますが、当時のケセラ少年は50m走は6秒1で走り、ジャンプさせればダンクこそ出来なかったもののバスケットのリングを両手で掴める程の身体能力を有し何と実業団チームからのオファーがありました。しかし当時のケセラ少年は何を血迷ったのか、そのオファーを断ってしまいました。今思えばタッチ〜達にあるといわれる燃え尽き症候群だったのかも知れません。そしてもしあの時に実業団に行っていたら日本人初のNBAプレーヤーはケセラ少年だったかも知れませんね。おっと、あまり調子に乗ってるとロシア領を始め全国からドラえもんのくせに調子に乗るなと苦情が来そうなのでやめておきましょう、妄想失礼しました。

10/25 京都 vs 新潟(20-21 B1第5節)|バスケットLIVE
https://basketball.mb.softbank.jp/videos/7411

京都橘観光案内 伏見大手筋

京都橘の動画は数あれど、この前田慶次郎さんの伏見大手筋商店街パレードの動画が最も人気があるのではないかと思います。2021年6月時点で3,435万回の再生回数を誇ります。私もこの動画は大好きで定期的に見ています。ローズパレード直前で114-116期のほぼ全員参加の大人数であり、安定したパフォーマンスを楽しめる動画となっています。この中からO-vilsに参加しているメンバーも多いので、今後もO-vilsで生でこのようなパフォーマンスが見られる可能性があるというのも楽しみなところです。

さて、この伏見大手筋通りは京都橘の地元で、京都橘中・高はこのパレードのスタート地点の鳥居の奥方向1kmくらいの距離にあります。大手筋は東西に走る通りなので、東方向に約1kmということになります。動画を見ると伏見大手筋商店街はよくある地方のアーケード商店街のように見えますが、この大手筋通りはただの地方の大通りではありません。

そもそも伏見は平安京以前より秦氏など渡来系氏族により開発されてきたところですが、今から400年ほど前に、かの太閤豊臣秀吉がこの地に指月伏見城を築き城下町を作ったことにより一躍当時の日本の政治・文化の中心地となります。この指月城はこのパレードのスタート地点の鳥居の南東方向(右斜め奥)500mくらいの地点に築かれたと考えられていて、大手筋通りはこの指月伏見城の大手門につづく道として誕生しました。この道は当時の日本のメインストリートともいえる道で、秀吉や当時その配下であった徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元などもおそらく通ったであろう道です。前田利家や上杉景勝に仕えていた傾奇者の前田慶次郎ももしかしたらこの道を通ったかもしれません。

指月伏見城は地震により倒壊しますが、すぐに北東方向1kmくらいのところ(鳥居の左手奥約1km)に位置を変えて木幡山伏見城として再建されます。この城も秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いのときに焼け落ちますが、今度は支配権を握った徳川家康により同地に再建され、家康はこの伏見城で征夷大将軍の宣下を受けることになります。のち秀忠、家光まで伏見城で将軍宣下式を行っていて、江戸時代初期まではここ伏見が日本の中心地であったと考えていいでしょう。

さてここからは大手筋通り周辺の風物をご紹介します。

まずはパレードのスタート地点の大鳥居は御香宮(ごこうのみや)神社の鳥居です。この神社の創建の由緒は不明ですが、平安時代に境内から香りのよい水が湧き出して、その水を飲むと病が癒えたというところから時の清和天皇から御香宮の名を賜ったといいます。この水は今も湧き出ていますので、訪ねる機会があったら飲んでみるのもいいかもしれません。

御香宮神社の御香水 Wikipediaより

この神社は幕末には薩摩藩の本営となり、鳥羽・伏見の戦いでは大手筋通りを挟んで南側にあった伏見奉行所にこもる会津藩や新撰組の陣地を砲撃して陥落させたそうです。

御香宮神社の前には黒田節発祥の地の立て札があります。このブログの読者ならおそらく知っているとは思いますが、黒田節は黒田長政の家来が大杯の酒を飲みほして福島正則から槍をもらったという故事に基づく唄で、それはこの御香宮神社あたりであったことのようです。

御香宮神社の黒田節の立て札 Wikipediaより

パレードに従って、近鉄、京阪の線路を越えた次の角あたりは徳川家康が日本で最初に銀座をつくった地となります。ここが元祖銀座ということで、東京のザギンでシースーよりは、ここ大手筋で清酒を一杯のほうが格式が高いかもしれません。

そこを超えると、普通の商店街が続きますが、この大手筋通りの周辺には造り酒屋が20軒以上あり一帯が酒蔵地帯となっています。パレードの進行方向で銀座の角から3つ目の通りを左に入ると、月桂冠や黄桜など大手酒造メーカーの本社や工場があり、アンテナショップや酒造に関する記念館や資料館もあるので日本酒好きには面白いところだと思います。その次の角の細い道を左にまがったあたりには伏水酒蔵小路といって小さな居酒屋が密集している地帯があり、そこに行けばたいていの種類の伏見の酒が飲めます。ただし、京都市には最初の乾杯は日本酒でしなければならないという冗談のような条例もあるので、飲みすぎには注意です。

アーケードが途切れたところ、パレードの折り返し点を左に曲がれば、納屋町商店街を抜けて竜馬通り商店街です。この商店街の突き当りを右に曲がれば、当時坂本龍馬が京都の常宿にしていた寺田屋があります。ここである夜に竜馬は伏見奉行所の捕り方に襲われますが危うく難を逃れました。坂本龍馬もここを拠点に日本の将来を憂いながら大手筋通りを歩いたのではないかと思われます。

現在の寺田屋 Wikipediaより

しかし、坂本龍馬も、豊臣秀吉も、徳川家康も、薩摩藩士や新撰組も、のちの世にオレンジの軍団がダンスと演奏をしながら大手筋をパレードするとは思いもよらなかったのではないでしょうか。

ということで、次の投稿はケセラさんよろしく。

 

定期的な記事投稿と投稿者募集について

皆様、ikeです。

このところ記事の投稿が滞って、コメントをつける期限がすぎてしまって、コメントできなくなってしまうということが起こっていますので、定期的に記事を投稿できるような仕組みを作ろうと思います。

まずは現在記事を投稿する意思があることが確認できた、ike、ケセラさん、ともちちさんで、この順でおよそ一週間間隔で記事を投稿していくということにします。ただし何か急用があるとか、ちょっとネタが見つからないとかの場合はパスして、一週間以内に次の順の人にバトンを渡すということも可能とします。まずは今週からこの制度をスタートしますのでみなさまよろしく。次はikeが何か記事を投稿します。

そして、三人だけだとネタが尽きてしまったりしまうことも考えられますので、この投稿者グループに新規に参加して投降する方も併せて募集します。資格は京都橘に関連する記事を定期的にこのブログに投稿する意思のあるかたです。投稿者グループは任意の時点で脱退することも可能で、脱退した人でも再参加することも可能です。お申し込みはこのブログのお問い合わせページからお願いします。その際、メールアドレスとニックネーム、簡単なプロファイルをお知らせください。折り返し投稿者アカウントと投稿者グループでの順番をお知らせします。皆様奮ってご応募ください。